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WHAT IS NEBUTA

ねぶた祭りとは

ねぶたの由来

青森ねぶた祭のルーツは、七夕の行事にあると考えられています。奈良時代に中国から伝わった七夕の風習と、津軽地方に古くからあった精霊送りや虫送りといった習俗が結びつき、紙・竹・ロウソクが手に入りやすくなるとともに「灯籠」という形に発展していった、というのが有力な説です。

「ねぶた」という呼び名についても諸説ありますが、東北から関東・信越にかけて「ねむり流し」「ねぶり流し」といった、眠気や穢れを水に流す禊(みそぎ)の行事が広く分布しており、その方言が転じて「ねぶた」になったと考えられています。現在も続く海上運行は、この「灯籠を流す」という原初の姿を残したものだといわれています。

ねぶたの変遷

記録に残る最も古いねぶたは、江戸時代の享保年間(1716〜1736年)、油川町付近で弘前のねぷたを真似て灯籠を持ち歩いたというものです。当時の姿は現在とは大きく異なり、京都・祇園祭の山車に近い形だったとみられています。歌舞伎の名場面などを題材にした人形ねぶたが登場するのは、文化年間(1804〜1818年)ごろとされています。

明治に入るとねぶたはさらに大型化しますが、明治6年(1873年)、県令によって旧習として禁止令が出され、明治15年(1882年)に解禁されるまでの9年間、姿を消した時期がありました。大正末期から昭和初期には仮装(ばけと)が流行し、戦時中の中断を経て、戦後は港まつりと結びつきながら急速に観光化・大型化していきます。

1716〜1736年(享保年間)油川でねぶた祭が行われたとする、現存最古の記録
1873年(明治6年)県令によりねぶた禁止令(1882年に解禁)
1945年(昭和20年)青森空襲により祭り中止
1947年(昭和22年)復興港まつり開催、海上運行が始まる
1958年(昭和33年)「青森ねぶた祭」に改称、東北三大祭りに数えられる
1980年(昭和55年)国の重要無形民俗文化財に指定
2001年(平成13年)「青森ねぶた保存伝承条例」施行
2011年(平成23年)「ねぶたの家 ワ・ラッセ」開館

年表は青森市の公式資料等をもとに、当会にて要点を整理・再構成したものです。

ねぶたを未来へつなぐ条例

青森市では平成17年(2005年)、「青森ねぶた保存伝承条例」が施行されました。ねぶたを市民共有のかけがえのない財産と位置づけ、市民・ねぶた祭参加団体・市それぞれが、健全な形で次の世代へ引き継いでいく責務を負うことを定めたものです。青森ねぶた伝承会の取り組みも、この条例が掲げる「市民一人ひとりが当事者として保存・伝承に関わる」という考え方に通じるものだと考えています。

昔の資料アーカイブ

過去の山車や祭りの様子を写した写真を集めています。準備が整い次第、順次公開していきます。

ねぶたの作り方

大型ねぶたは、下絵・骨組み・紙貼り・ロウ書き・色付け・電気配線という長い工程を経て、数ヶ月かけて制作されます。制作の様子は、団体密着記事の中でも随時紹介していく予定です。

ねぶた師 — 歴代ねぶた名人

青森ねぶたは、もともと町内会などの運行団体で、手先が器用な祭り好きの有志によって作られていました。制作技術が高度化するにつれて作り手は専門化し、「ねぶた師」と呼ばれる存在になっていきます。中でも特に高い技術で祭りの発展に貢献してきた作り手は「ねぶた名人」として顕彰されており、これまでに7人が認定されています。

初代
北川 金三郎
明治13年生まれ。桶屋・左官職人でもあった。既存の型に満足せず、人形ねぶたの表現を大胆にアレンジした草分け的存在で、昭和33年に初代ねぶた名人に認定された。
第2代
北川 啓三
金三郎の息子。12歳から父についてねぶた作りを学び、絵の表現に強いこだわりを持った。昭和30年代に数々の名作を生み出し、昭和60年に名人位を贈られた。
第3代
佐藤 伝蔵
大正14年生まれ。北川金三郎・啓三に師事し、新しい技術に積極的に挑戦し続けた。昭和57〜60年には最高賞を4年連続受賞している。
第4代
鹿内 一生
大正14年生まれ。持病を抱えながらも制作を続け、「我生会」を通じて多くの弟子を育てたことでも知られる。
第5代
千葉 作龍
45年間で141台もの大型ねぶたを制作。制作環境の整備にも尽力し、内山龍星氏・竹浪比呂央氏ら後進を輩出した。
第6代
北村 隆
2001年、イギリス・大英博物館でねぶたを制作・展示し、世界最高峰のペーパークラフトとして紹介された。
第7代
竹浪 比呂央
師は千葉作龍。2010年に竹浪比呂央ねぶた研究所を設立し、若手ねぶた師が制作を続けられる環境づくりにも取り組んでいる。

経歴は各種公開資料をもとに、当会にて要約・再構成したものです。